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すずさんに会いに、あの街へ。

 

公開から650日ものロングランが続いている映画『この世界の片隅に』。今年の12月には、新規場面を加えたもう一つの映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が公開されることも発表され、期待が高まっています。

 

この夏も、『この世界の片隅に』はさまざまな街の映画館で上映されています。このコラムでは、『散歩の達人』8月号に特別企画として掲載した、片渕須直監督×のんさんのインタビュー記事「『この世界の片隅に』終わりのない物語の先に。」のおまけ企画として、上映が予定されている映画館や作品ゆかりの街を訪ねます。

 

第3回  『土浦セントラルシネマズ』と、土浦の街へ。

 

 

映画『この世界の片隅に』の、650日超えという異例のロングラン。その記録を支えた映画館が、どういうわけか、北関東のとある街にあります。茨城県土浦市の『土浦セントラルシネマズ』。この館で上映が始まったのは2017年2月18日。以来、一日も途切れることなく上映は続き、いつしか映画のファンが遠方からも足を運ぶようになりました。

 

広島から遠く離れた土浦という街は、この物語と直接のゆかりがあるわけではありません。しかし、偶然にも、作品の舞台となった呉と同じ“海軍の街”だったという共通点があります。

 

大正10年(1921)、海軍は土浦の隣に位置する阿見村(現・阿見町)に霞ヶ浦飛行場を開設。翌年には霞ヶ浦海軍航空隊が設置され、“東洋一の航空基地”とうたわれるようになります。そして昭和14年(1939)、航空機搭乗員養成のための海軍飛行予科練習部(予科練)が横須賀から霞ヶ浦海軍航空隊に移転。翌年には予科練を独立させる形で土浦海軍航空隊が発足します。

 

霞ヶ浦海軍航空隊の開設以来、周辺人口の増加により、阿見と隣接した土浦の街もにぎわいをみせます。海軍を相手にした花街の開発や食堂街の発展、そして映画館も相次いで開館。土浦駅前から阿見までは、バスと合わせて昭和13年(1938)まで常南電気鉄道も通っていました。週末には軍人や予科練生が街を行き来した風景を想像すると、『この世界の片隅に』で、すずさんと周作さんが呉の街でデートするシーンが重なります。

 

そんな土浦の市街地に現在唯一残っている映画館が、戦後に開館した『土浦セントラルシネマズ』。今回は、変わり続ける街と映画館の関係を探ります。

 

“映画の街”の灯を消したくない  ~『土浦セントラルシネマズ』~

 

『土浦セントラルシネマズ』を訪ねたある夏の日。『この世界の片隅に』の上映は1日1回、朝10時から。その日の観客は、“常連さん”と私の2人きり。まずは、ほぼ毎週末この映画を観に来ているという“常連さん”に、土浦へ通う理由を尋ねてみた。

 

後方からスクリーンを望む
後方からスクリーンを望む。300席の広々とした劇場だ。

 

――『土浦セントラルシネマズ』に来るようになったのは、いつからですか?

 

常連さん この映画をやっていた関東の映画館は、ほとんど行ったんです。今年になって、上映している館が他になくなってしまったとき、唯一やっていたここに来たのが最初です。それからだいたい毎週来ていますね。

 

――ということは、この映画をものすごい回数ご覧になっているんですね。

 

常連さん 最初はまったく予備知識なく観たんですが、観終わったあと、「これは何だったんだろう」という感じがあって……。気がついたらあちこちの映画館に行くようになっていました。そもそも、それまでは映画館で映画を観るということをほとんどしてこなかったのに、この映画を観てからあちこちの映画館に行くようになったんです。

 

――たくさんの映画館でご覧になるなかで、こちらに通い続けているのはなぜでしょうか。

 

常連さん もう習慣みたいなものなんですけど(笑)、ここの映画館はフラットな造りでいいんです。音もいいですし、何より、スクリーンを独占できるみたいで、贅沢でしょう?

 

――たしかに、こんなに大きな映画館で、これだけの少人数で映画を観るという体験はしたくてもなかなかできませんね。

 

ふつう、観客が数名しかいない映画を上映し続けるのは難しいはずだが、一体どのような理由があるのだろうか。『土浦セントラルシネマズ』を運営するティー・アール・イーの寺内龍地社長に、映画館と土浦の街についてお話を伺った。

 

――ロビーに、ファンの方のイラストなどが置かれた『この世界の片隅に』コーナーができていましたね。

 

寺内 聖地化しちゃったみたいなんだよね、なぜか(笑)。うち、ずーっと上映してるじゃないですか。お客さん同士が知り合いで盛り上がったりしているようで、「みんなでこの日行こうよ」となったり、ファンの方が自分で描いた絵とかを持ってきてくれるんです。いつだったか、「置ける?」という話があって、「うちは飾るところはいっぱいあるからいいよ」って言ったら、だんだん増えていって。

 

『この世界の片隅に』コーナー
ロビーに生まれた『この世界の片隅に』コーナー。

 

――これだけ長く上映されている映画館は他にないので、ファンの方も大事な存在だと感じているのかなと思いました。

 

寺内 それに、監督さんが、ことあるごとにうちの劇場の名前を出してくれているらしくて。

 

――確かに、夏は再上映や新しく上映する館もたくさんあって、片渕監督もしばしばSNSで上映情報を投稿されていますが、『土浦セントラルシネマズ』さんのお名前がいつも一番上にあります。

 

寺内 監督さんから、「長いことやってもらっているので、ぜひ舞台挨拶をやりたい」と何度も言っていただいていて。タイミングが合わなくてペンディングになったこともあったんですが、ついに来月やりましょうかという話で、9月9日にやることになりました。

 

――そもそも、こんなにも長い期間上映することになったきっかけは何だったのでしょうか。

 

寺内 今、ブッキングはほとんど支配人に任せているんですが、この映画は私が目をつけて、公開前からオファーしてたんです。でも、賞を獲ったり話題になったこともあって、シネコンが2週間やった後でうちがやるっていうことになって。それならお正月映画に、ということで考えていたんだけど、結局ずれて2月18日になりました。それからずっとやっているわけですが、実は、何度かやめようと思ったんですよ。でも、ファンの方がいて、「やめないでください」っていう声もあるし……。下手な作品をやって入らないよりは、それも個人館としての戦略かなと思って、朝1回だけ残そうということで、今に至ります。

 

入り口横に貼られた色褪せたポスター
入り口横に貼られた色褪せたポスターが、上映期間の長さを物語る。

 

――今日の観客は、私も含めて2人でした。観るほうは贅沢だなと思うんですが、「こんなに贅沢でいいのかな」という気にもなり……。

 

寺内 そう、うちは劇場が大きいじゃないですか。最近の映画館はシネコンでも100席くらいのこぢんまりしたところが多くて、ちょっと圧迫感があったりもする。うちは300席あるから、お客さんが少ないと逆にオープンすぎちゃって、「一人で観ていいのかな」みたいなこともあると思うんだけど、まあ、それもいいんじゃないのってことで(笑)。今は夏で他の番組もあるけど、ないときは回数を増やしたりとか、そういうのが個人館だといろいろできるんですよ。

 

――シネコンのお話が出ましたが、『土浦セントラルシネマズ』さんも本来は4スクリーンですよね。

 

寺内 そうです。うちも今はこんなにスカスカですが、震災前は4スクリーンあって、常に12~13本やってましたから。入れ替え制なので、週末なんかは下のエスカレーターのところに4列でお客さんが並んでいました。

 

――震災の影響が大きかったのですか。

 

寺内 大きかったですよ。でも、茨城県は被災県とはみなされてないんですね。内陸部のこのあたりは一部損壊ではいっさい補助が出なくて、市内では営業が困難になったところも多いんです。うちの場合はビルのテナントさんのほうを優先したので劇場は後回しになってしまって、機材が倒れたり、壁が落ちたりした3・4スクリーンは閉めたままなんです。4スクリーンが2スクリーンになるとお客さんの選択肢も少なくなってしまうわけですよ。震災の前に土浦にイオンができて、そこにシネコンが入ったこともあって、状況は変わりましたね。

 

閉鎖中の3番スクリーン
閉鎖中の3番スクリーン。現在の1・2番スクリーンは後から増築した新館にある。

 

――そういった変化の前、土浦の映画館事情はどのような感じだったのでしょうか。

 

寺内 以前は市内に12スクリーンあって、“映画の街土浦”って言ってたんです。私らの業界の定義としては、興行で成り立つのは人口3万人に1スクリーンなんですよ。そうすると、土浦は人口15万しかないのに、なんで12スクリーンもあるの? ていう話だけど、当時は今の「つくば市」が合併でできる前で、町と村だったんです。その分母からみんな週末は土浦に来るという、県南の商都としての土浦があったんですね。茨城では県北は日立、県央は水戸、県南は土浦という位置づけがあって、土浦には佐原だとか千葉県のほうからも映画を観に来てくれてました。

 

――『土浦セントラルシネマズ』さんができたのはいつのことでしょうか。

 

寺内 うちは、土浦では一番後発の映画館なんです。僕が昭和30年生まれなんですが、その年に当時の町名をとって「祇園会館」っていう名前で始まったんです。経営者はうちの親父で、親父の妹の旦那さんが支配人としてずーっとやってたんです。私から見たら、おじさんですね。最初はいわゆる寄席もの小屋というか、漫才師とかを呼んでいたんです。昔の映画館は、フィルムは不燃性じゃないし、光源が今みたいに電気じゃなくてカーボンといって火だったので、公共物から何メートルとか、離れたところじゃないと許可が下りなかったんですよ。開館から2年後にこの前のビルにあった郵便局が引っ越したので許可が下り、「祇園セントラル映画劇場」という映画館になったんです。その後「土浦セントラルシネマ」になって、私の代で複数館になったので「土浦セントラルシネマズ」にしました。昭和57年に2スクリーン、昭和62年に4スクリーンになりましたが、シネコンの定義って私らの業界では5スクリーンからだから、うちは準シネコンみたいな感じかな。

 

――お父様は、何年のお生まれですか。

 

寺内 親父は明治38年(1905)生まれ。僕は親父が50のときの子供なんです。

 

――お父様から戦前の土浦のお話を聞くことはありましたか。

 

寺内 ありますよ。親父は土浦生まれ、土浦育ちでしたから。昔は電車が阿見から土浦までつながってて、週末には兵隊さんが土浦の花街に遊びにきて。その名残で赤線・青線が残ってたから、土浦には風俗街があるんです。今は桜町何丁目ってなっているところですが、昔は匂町、朝日町、敷島町、小桜町……って、古い歌からとった町名だったんですよ。うちの親父なんかも、独身のころはよく行ってたらしいよ。親父は長男なんだけど、なじみのところに泊まって、朝、洗面所で顔洗ってたら隣になんか見たことある奴がいるなと。隣を見ても見たことある奴だなって思ったら、3兄弟がそこにいたなんてことがあったっつうから、笑っちゃうでしょ(笑)。

 

――それはすごいエピソードですね。土浦には戦前から映画館もたくさんあったようですが、そのことは聞いていましたか?

 

寺内 小野座、霞浦(かほ)劇場、銀映座なんかは戦前からありましたね。兵隊さんたちは、週末はそういうのを楽しみにしてて。花街に行く人、映画を観に行く人。このへんは食堂街だしね。

 

――この近くに海軍の指定食堂だった食堂が今も残っていますね。お父様は、直接海軍とは関わりはなかったのでしょうか。

 

寺内 親父は背が小さくて、徴兵検査でいわゆる“合格”にならなかったんです。6人きょうだいの長男で、下に男が2人、女が3人。家庭があんまり裕福じゃなかったから中学には行けなくて、尋常高等小学校を出たあとは米屋の丁稚からたたき上げて。米屋のあとは建築業。自分の会社を持って、あちこちの学校を建てたりして、このビルも建ったんです。市会議員も10期やってました。昔の市会議員っていうのは、どっかの社長とか、店主さんとか、そういう方たちが多かったんですよね。

 

――そんなお父様が映画館をつくろうと思ったのは、どうしてなのでしょうか。

 

寺内 お気に入りの芸人を呼びたくて、自分で劇場をつくっちゃったんですよ(笑)。昔はね、下足札とかもあるような劇場だったんです。舞台があって、その後ろにスクリーンを貼って。たしか『青春グラフィティ スニーカーぶる~す』の時かな? 定員200人の小屋で1日4回上映。MAXで800人しか入らないはずなのに、1800人入れたんです。舞台の袖とか、通路とか、後ろまでぎっしりと。今の劇場って、だいたい出るところと入るところが一緒ですよね。昔の劇場は袖に通路があるから、袖の扉を開けるとそこからところてん式にお客さんを出せて回転もよかったんです。だから、うちにずーっと来てたお客さんでも、おたくで座席に座ったことないっていう人もいてね。

 

――たしかに、あの袖の扉から出入りするのは懐かしい感覚がありました。

 

寺内 シネコンっていうのは、フラットなところに、階段状に角度をつけるんですよ。うちの場合は劇場を新しくしたとき、床に傾斜つけて前の人と重ならないようにうまく造れって親父が言ったのでああいう風にしたんです。今、ふつう後ろに立ち見用の手すりなんてないでしょ?今の映画館にないっていうと、そういうところだよね。

 

ゆるい傾斜がついた劇場内
ゆるやかな傾斜がついた劇場内。最後部席の後ろには手すりが付いている。

 

――それに、昔からの繁華街の中にある映画館というのがいいなと思います。

 

寺内 昔はマイカーなんてなくて、どこに行くにもバスとか電車とか、公共交通機関。だから、駅から歩いて行けるっていうのは劇場の立地条件として当たり前だったんです。あと、昔はホームページなんてないから、どこで何をやっているかをみんな探して来てくれたんです。「ドラえもん」なんかは、初日の一週間前くらいから「何時からですか」ってずーっと電話が鳴りっぱなしですよ。だからうち、代表電話が3回線もあるんです。

 

――そういえば、昔は新聞で上映情報を探していました。

 

寺内 でしょ? でも、新聞もローカルな劇場はあんまり載ってないわけですよ。だからうちも、田舎の劇場にしてはホームページは早かったですよ。

 

――寺内さんが映画館にかかわるようになった経緯を教えていただけますか?

 

寺内 僕は大学を出て、3年ちょっとビクターに勤めてたんです。ところが、支配人だったおじきが、絵看板を高いところに上げるときに落っこちて骨を折っちゃって。親父が「お前やれ」っていうから「やだ」っていったんですよ。あのころはもう、映画は斜陽産業と言われてたんです。

 

――昭和50年代後半でもそう言われていたんですか。

 

寺内 そうです。でも、やらざるをえない状況で……。おじきからは、お前は現場はいいんだ、映画のセールスと付き合ったり、ブッキングとかそっちをやれって言われたんだけど、映画っていうのは、映写技師が来ないと始まらないんですよ。それに気を遣うのが嫌で、僕は映写技師から入ったんです。現場を知らなきゃ経営も学べないじゃないですか。

 

寺内龍地社長
寺内龍地社長。劇場には、まだフィルム映写機も残しているという。

 

――寺内さんが劇場を引き継がれてから、印象的だった出来事はありますか?

 

寺内 上映期間の長さでいうと、『タイタニック』は1年2カ月やりましたよ。『この世界の片隅に』の前では一番のロングランの記録で、リピーターが多かったですね。

 

――今、個人館が続けていくのは厳しい時代だと思いますが、土浦でもたくさんあった劇場が廃業する中、『土浦セントラルシネマズ』さんが続いている理由はどのようなところにあるのでしょうか。

 

寺内 はっきり言って、劇場だけで商売してたらとっくになくなってると思います。一応こういう複合ビルを持っていて、その中の事業部門の一角なもんですから。でも、街の文化の灯を消したくないっていう僕のポリシーはあります。前は商業ベースの映画で成り立ってたんですけど、それにかからない映画もあるわけですよ。最近は、どこも上映してくれない映画を、全国に先駆けてうちでやるようなことも、けっこうあります。

 

――土浦のような規模の街で、そういう映画館があるのはおもしろいですね。

 

寺内 そういうのが広まって、逆に配給会社側からそんな話がくるようになったりもしてます。でも、東京みたく、単館でやれば満席で常にいっぱいで、っていうのはなかなか難しいですね(笑)。

 

――そのような状況の中で、一つの映画が上映され続けているのは貴重なことだなと、あらためて感じます。『この世界の片隅に』は、いつごろまで上映を続けるか考えていらっしゃいますか。

 

寺内 年内いっぱいかな、と思いながらも、新しいバージョンが出るのでそれによってですかね。ただ、皆さんのやめないでくださいっていう声に応えたいとも思うし……。

 

――寺内さんの、「応えたい」という思いはどこからくるのでしょうか。

 

寺内 要するに、頑張りたかったんです。シネコンに淘汰されて、悔しいじゃないですか。でも、田舎のシネコンはだいたい郊外にあるんで、郊外じゃなくてやっぱり街の中で、駅から歩いて来られる映画館を守りたいという気持ちがあります。それに、大きなスクリーンで、いい音響で、迫力のある中で観るのが映画だと思いますからね。

 

――この記事をご覧になっている方はもしかしたら遠方にお住まいかもしれませんが、ぜひ、電車に乗って小旅行気分で訪ねていただきたいです。

 

上映情報、9月9日の舞台挨拶の情報はこちらへ!

土浦セントラルシネマズ

http://www.tsuchiura-central.com/

 

 

 

 

戦前の街の面影を探して土浦さんぽ

 

『土浦セントラルシネマズ』で映画を観たら、ぜひ土浦の街を歩いてみてください。ところどころで、かつての街の姿を忍ぶことができます。

 

 

土浦まちかど蔵(土浦セントラルシネマズから徒歩5分)

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土浦市観光協会が運営する2つの『土浦まちかど蔵』のひとつ、江戸時代後期から明治時代初頭に造られた「野村」の奥には、明治25年(1892)築のレンガ蔵を改装した『喫茶 蔵』が。

 

こちらでいただける「ツェッペリンカレー」は、昭和4年(1929)、ドイツの大型飛行船ツェッペリン伯号が霞ヶ浦飛行場に飛来したさい、カレーをふるまったことにちなむメニュー。カレーは海軍食でもあり、広島県・呉の「呉海自カレー」、神奈川県・横須賀の「よこすか海軍カレー」など、“海軍の街”のグルメとしても人気だ。こちらのカレーは名産のレンコンがたっぷり!

 

ツェッペリンカレー800円
ツェッペリンカレー800円はレンコンのシャキシャキ感がくせになる。
喫茶 蔵/10~18時、無休。土浦市中央1-12-5 ☎029・822・0081

 

また、土浦まちかど蔵「野村」には、ツェッペリン伯号飛来の歴史を語り継ごうと地元の「土浦ツェッペリン倶楽部」が運営する展示室も。

 

 

 

保立食堂(土浦セントラルシネマズから徒歩4分)

 

明治2年創業の天ぷら屋。こちらは昭和16年に、海軍の指定食堂となった土浦の7軒の食堂のうちの一つ。丼もののメニューが予科練生たち人気で、米や味噌が配給になる中、何とか食材を集めて作っていたという。指定食堂は、予科練生の家族との面会場所にもなっていた。

 

現在は6代目の保立成彦さんを中心に切り盛り。往時をしのぶ味も健在だ。

 

天丼並870円
天丼並870円は少し濃いめの甘辛さがくせになる。あら汁付き。

 

「創業明治2年からの味」の文字
あら汁250円には「創業明治2年からの味」の文字。

 

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区画整理の続く土浦の中で、目をひくたたずまい。
保立食堂/11時~18時30分(水は11~14時)、第2・4水休(不定休あり)。
土浦市中央1-2-13 ☎029・821・0151

 

 

予科練平和記念館(土浦駅からバス15分のち徒歩3分)

 

かつて海軍航空隊が置かれた阿見町に、2010年にオープンした予科練や街の歴史を伝える施設。「入隊」「訓練」「心情」「飛翔」「交流」「窮迫」「特攻」と、予科練の代名詞だった制服の「七つボタン」にちなんだ7つのテーマで写真や資料を展示。1945年6月10日、阿見が標的となった空襲の体験を地元の方が証言した記録映像なども。

 

全国から試験で選抜した14~17歳の少年を搭乗員として基礎訓練する海軍飛行予科練習生(予科練)の制度は、昭和5年(1930)に始まり、終戦までに約24万人が入隊。飛行練習生を経て約2万4000人が戦地に赴いたが、中には特攻隊として出撃した人も多く、戦死者は約1万9000人にものぼった。

 

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予科練平和記念館/9~17時(入館は~16時30分)、月休(祝の場合は翌休)。入館大人500円。
稲敷郡阿見町大字廻戸5番地1 ☎029・891・3344

 

 

散歩の達人番外編

→ 第1回『ユジク阿佐ヶ谷』と、阿佐ケ谷の街へ

→ 第2回 東京の海苔のふるさと、大森の街へ。

 

 

 

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