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すずさんに会いに、あの街へ。

散歩の達人2018年8月号番外編
すずさんに会いに、あの街へ。

公開から600日以上ロングランを続けている映画『この世界の片隅に』。今年の12月には、新規場面を加えたもう一つの映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が公開されることも発表され、期待が高まっています。

この夏も、『この世界の片隅に』はさまざまな街の映画館で上映されています。『散歩の達人』2018年8月号に特別企画として掲載した、片渕須直監督×のんさんのインタビュー記事「『この世界の片隅に』終わりのない物語の先に。」のおまけ企画として、映画館やゆかりの街を訪ねるコラムを全3回の予定で掲載します。

第2回
東京の海苔のふるさと、大森の街へ。

2018/8/10

「散歩の達人」2018年8月号の大特集は「蒲田・大森」。この号の巻頭がなぜ映画『この世界の片隅に』の話題なのか。お察しの方もいらっしゃるかもしれませんが、それには、こんな理由もあります。

今回の特集エリアのひとつである大森は、かつて、すずさんのふるさと・広島市の江波と同じ海苔の産地でした。また、大森の海苔生産が東京港の港湾整備のために終焉したこと、かつては海水浴場としてもにぎわった海が埋め立てられ、高速道路やモノレールができたこと――。状況は違いますが、どこか江波と大森は似た運命をたどった土地だとも感じました。

そしてもう一つ。『この世界の片隅に』という作品が、原作のこうの史代さん、そして映画の制作にあたっては片渕須直監督が、たくさんの街の人たちの記憶を聞き取って、すずさんの存在と、すずさんがいる世界を確かなものにしていったことに、街を取材してきた雑誌として感銘を受け、強く共感したことです。

8月号では大森の海辺の変遷について、「大森 海岸物語」として3つのテーマで取材をしていますが、ここでは広島との違いも探しながら、“東京の海苔の街”を歩きます。

広島と江戸は海苔でつながっていた?
~『大森 海苔のふるさと館』~

まず訪ねるのは、今年開館10周年を迎えた『大森 海苔のふるさと館』。大森の海苔の歴史や文化を伝える施設です。職員の五十嵐麻子さん、舟越寿尚さんにお話を伺いました。


――8月号のインタビューの中で、片渕須直監督がこちらで海苔付けの体験をされたと伺いました。

五十嵐 そうらしいですね!実は私も後になって知って、もし知っていたら映画の宣伝ができたのにと……!

――監督は、大森と広島の海苔作りはだいぶ違うとおっしゃっていました。

五十嵐 そうですね。実は『広島市郷土資料館』が2013年に「干潟の恵み~カキとノリの物語~」という企画展をされたとき、うちの館も写真をお貸ししたり少し協力していて。そこで海苔抄(漉)きの体験をされるというので、私も広島へ行って体験してきたんです。それまでは広島はここ(江戸)と同じくらいの時期に海苔の養殖が始まったということしか知らなかったので、けっこう違っていて「へえー!」となりました。

――どういうところが一番違うなと思われましたか?

五十嵐 やはり、海苔を海苔簀に付けるやり方ですね。広島はたらいに入れて紙漉きのようにすくっていますが、大森は、投げつけるような感じで流し込むので「海苔付け」と言っています。でも、関東でも君津(千葉県)では広島と同じやり方でやっていたんです。最初はみんな広島と同じやり方でやっていたようなんですが、江戸では後からこの「海苔付け」が主流になったようです。

1階にある海苔付け場を再現した展示。

広島の海苔養殖の始まりは、独自に考案したという説と、江戸から技術を持ち帰ったという説がある。時期は享保年間ごろと江戸とほぼ同じで、全国的にもかなり早い。


――『広島市郷土資料館』の企画展の図録を見ると、品川・大森で抄き海苔の製法を視察した人が江波村で抄き海苔を始めたという記録もあるようですね。江戸時代からそんな交流があったなんて興味深いです。海苔抄きのやり方は違いますが、大森の写真見たとき、干している風景は『この世界の片隅に』で見た江波の風景と似ているなと感じました。


五十嵐 でも、大森は海苔簀を縦にして干すのですが、広島は横にして干すようなんです。海苔簀の材質も違って、大森はヨシで作るのですが、広島は竹ひごで、縦にすると海苔が流れてしまうんだそうです。


舟越 ヨシは葉っぱが茎から生えていて、簀を作るときに葉っぱを落とすんですけど、葉っぱの付け根のところが凸凹でひっかかりになって、海苔が落ちにくくなるんです。あと、簀をとめている糸も、大森は6本ですが広島は4本です。

昭和13年、海苔を干す浦野3兄妹。簀の向きと糸の数に注目すると、細かく再現されていることがわかる。
ⓒこうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会

大森の海苔簀。左右両端の1本は竹。枠についた釘にひっかけるため、端から数本は竹か堅いヨシを使っている。


――なるほど、植物を使っているのに合理的ですね。

五十嵐 大森では、この「枠干し」という干し方の前は「台干し」という干し方をしていて、戦前が変わり目だったようです。戦後は枠干しが一般的になっていました。

昭和10年ごろの海苔干しの様子(台干し)。
(写真提供=大森 海苔のふるさと館)

昭和30年ごろの海苔干しの様子(枠干し)。
(写真提供=大森 海苔のふるさと館)


――大森の枠干しは、基本的に6段ですか?


舟越 だいたい6段になっていますが、地べたに直接つけるときは乾きにくい一番下はあけておくことが多かったんです。最盛期のときはこれだけじゃ足りなくて、さらに上に枠を一つ足して、2段にしているところもありました。


――すごい風景だったでしょうね。それにしてもお二人とも、まるで当時を見てきたかのようにお詳しいですね。


五十嵐 見てきた方に聞いたんです(笑)。元漁師さんたちも高齢になってきていているので、海苔作りについて聞き書きをしたりしています。

昭和10年ごろの海の風景。海苔養殖のためのヒビが無数に並んでいる。
(写真提供=大森 海苔のふるさと館)


――体験が資料として残るのは貴重なことですね。ところで、『この世界の片隅に』では冒頭ですずさんが海苔を料亭に届けに行くシーンが印象的なのですが、大森の海苔漁師さんは、海苔を育てて採って、干して、はがして……と、どこまでが仕事なのでしょうか?


五十嵐 大森では、干して、はがして、これ(平箱)に入れるところまでですね。そこから先は問屋さんの仕事です。古い時代は問屋さんが生産者の家を一軒一軒入札に回る「庭先買い」っていうやり方だったんですけど、そうすると談合というか、問屋さん同士が相談して値段を安くして生産者が損をするのでは……という問題があり、全員一括で協同組合に納めて一斉に入札する「共販制(共同入札)」が昭和28年から導入されたんです。

生産者が海苔の一時保管や問屋まで運ぶ際に使ったという平箱。


――問屋さんを取材させていただいたとき、「火入れする」と「焼く」という言葉があったのですが、この違いは何でしょうか。


五十嵐 干した海苔をさらに乾燥させるのが「火入れ」です。それを焼いたものが「焼き海苔」です。今売っている海苔は「焼き海苔」が一般的ですが、昔はその手前のものが売られていて、家で焼いて最後の仕上げをしていたんですよね。


――昔、祖母がよくガスコンロでパッパッてあぶっていたのですが、そういうことだったんですね。


五十嵐 あ、やってたんですか!? やっぱり関東の方なんですね。私たち、実は大田区出身ではなくて、海苔の地域の生まれでもないんです。私は秋田の内陸のほうの田舎出身なのですが、ここに来るまでは海苔をあぶったりするのを見たこともないし、そもそも「焼き海苔」以外の海苔が存在することも知らなくて。


――どの地域も共通のことではなかったのでしょうか?


五十嵐 全国的にはわからないのですが……。このあたりでも、干(乾)し海苔を買っていたというおじいちゃん、おばあちゃんで、「焼き海苔でもあぶったほうがおいしい」って、今も家であぶっているという人がいるんですよ。舟越くんは味つけ海苔しか知らなかったとか……。

舟越 ふつうの焼き海苔も知ってましたけど(笑)。自分は大阪なのですが、焼く前のものが流通していたというのはここに来るまで聞いたこともなかったです。

五十嵐 そういえば、広島の海苔は大阪で売られていたって聞きましたね。

――(前出の)図録にも、広島で作られた海苔は、江戸時代から大阪に出荷されていたと書いてありますね。こういう地域のつながりは本当におもしろいです。ところで、「焼き海苔」が一般的になったのはいつ頃のことなのでしょうか。

五十嵐 昭和40年代だったと聞いています。昔は紙などでくるんで売っていたのですが、焼いて紙にくるんだらあっというまにしけちゃうので、それを密閉する技術が出てからじゃないですかね。

昭和30年ごろの海苔採りの風景。戦前は竹ヒビが主流だったが、この頃は網ヒビが普及している。
(写真提供=大森 海苔のふるさと館)


――大森の海苔の生産は、昭和38年に終わりました。その一番の理由は何だったのでしょうか。


五十嵐 東京港の港湾整備のために都からの要請があって、交渉の結果、漁業権を放棄すると決まったんです。時代は高度経済成長で、日本が発展して東京がこれから大きくなっていくっていうときに、物流のために港を使うには船の通り道も必要。オリンピックも決まっていて、そのためのモノレールや首都高も必要……ということだったんですが、一方で水質汚染なども問題になっていて。海苔の生産が上調子だったらやめるとはならなかったと思うのですが、未来を考えるとそういう決断になったと。


舟越 戦前にも川崎・横浜をつなぐ京浜運河を造る計画があって、そのとき一度漁業権を放棄しているんですよね。戦争で中断したのですが、その計画で森ヶ崎(現・大田区大森南)のあたりを掘ったりしたことがあったんです。


――『この世界の片隅に』のすずさんの実家も、江波の埋め立てで海苔作りをやめていて、大森と重なるところがありました。


五十嵐 それでも広島のほうは、一気にやめたのではなく、徐々に生産者が減っていったようです。東京のように、一斉にやめる、というのは非常にめずらしい形みたいですね。


――8月号の取材で最初にこちらに伺ったとき、五十嵐さんが「住所でいうと『大森東』のあたりはみんな海苔だった」とおっしゃっていたのが印象的でした。それだけたくさん海苔作りに関わっている家があったということが、今の街を歩いただけでは一見わからないんですよね。でも、歩いて、お話を聞いていくと、だんだん風景が見えてきました。


舟越
 そう思って、この館でも定期的に“海苔の街”を歩くイベントをやっているんです。

『大森 海苔のふるさと館』のすぐそばにある「大森ふるさとの浜辺公園」。近所の人たちの憩いの場だ。


――地元出身ではないお二人から見て、大森はどのような街ですか。


五十嵐 ここは東京だと思って来たんですけど、人間関係がいい意味で田舎なんですよね。昔の、海苔のころの人間関係をいまだに守っているというか。海苔のおじさんたちは仕事を共同でやったりするので、お互いに頼み合い頼まれ合い、世話を焼き合うというか、つながりが深いなって。東京の人ってお互いさっぱりしてるのかと思ったらそうじゃなかった!と。


舟越 大森は田舎的な人間付き合いがあるんですけど、ここで働きだして海苔生産者の人たちにいろいろ教わったりしている中で、「あいつはよそ者だから」みたいなところがなかったんです。そこが東京の中なんだなあ、いい意味でさっぱりしてるのかな、と思いました。

――東京の中でも不思議な土地だなと思います。

舟越 大阪の人とかに大田区っていうと、「え?大田区?」みたいに言われて、山の手のほうの世田谷とか渋谷区に比べるとある種ダサいイメージとかもあると思うんですけど、実際歩いてみると歴史もありますし、昔はイケてる海浜リゾートだったりとか。そういうことを知るとおもしろいなって思うんですけどね。


――昔の写真を見るとイケイケでしたよね。あちこちにあった海水浴場、その周辺にできた芸者街。大森の海辺の激動の歴史については、ぜひ8月号もご覧いただけたらと思います。

五十嵐さん(左)と舟越さん。
館内では、ほっかむり+ボータ+前掛の“はまど”(=海で働く人)スタイルも体験できる(本誌参照)。

大森 海苔のふるさと館
9~17時(6~8月は~19時)、第3月休(祝の場合は翌休)。
大田区平和の森公園2-2 ☎03・5471・0333

大森が今も“海苔の街”な理由
~乾海苔問屋『守矢武夫商店』~

海苔の生産は終わったものの、大森は今でも海苔の街だ。その大きな理由は、海苔問屋が今でも元気なこと。詳しくは本誌を覧いただけたら幸いですが、今の大森の人たちにとって、海苔はどんな存在なのでしょうか。小売りもしている海苔問屋『守矢武夫商店』さんで、2代目・守矢義衛さんの妻・ひこゑさんと、娘の純子さんに伺いました。

――守矢さんがお店をはじめたのはいつのことでしょうか。


ひこゑ 昭和22年です。先代は長野の諏訪の人で、15歳のときから大森の問屋さんに、出稼ぎというか、奉公に行ってました。信州の冬は寒いでしょう。海苔は冬の仕事だから、冬はこちらへ来て、夏の間は田舎で農作業しなきゃいけないので帰って。


――火入れしたり、焼いたりするのも問屋さんの仕事とのことですが、仕入れた段階の海苔は、どのような状態なのでしょうか。


ひこゑ 海苔を入札したときは、半分に折った状態になっているんです。まだ乾燥していないから折りたためるんですね。10枚で1束、それを10束にして揃えて紙紐で束ねてあります。


純子 四角い焼き海苔をよく見ると、真ん中にうっすら山(折り目)がありますよね。これが折りたたんでいた跡なんです。流通を考えると、広げて送るより欠けにくいなどの理由があるようです。

半切のり540円の包装には、仕入れ紙が使われている。


ひこゑ 今はこれを一枚一枚手で広げて、5帖5帖を背中合わせにして、“仕入れ紙”でくるむ。それで乾燥機にかけるとよくのびるんです。


純子 入荷した状態だと、まだ水分量が多いんですね。長期保存に向かない状態なので、ものすごく高温で乾燥させるのですが、この作業を「火入れ」っていいますね。


ひこゑ なぜ「火入れ」っていうかというと、今は全自動ですが、昔使っていた「焙炉(ほいろ)」というのは、下に木炭を起こして入れて、海苔を乾燥させたっていうことなんです。


――乾燥させたあとに「焼く」という工程があるんですよね。


純子 そうです。乾燥させた状態で長期保存しておいて、それを焼いて、焼き海苔という形で商品にしています。

ひこゑ 海苔は寒い時期しか採れないので、そうやって保存しておくんです。今はラミネート袋に入れ、それをダンボール箱に入れていますが、昔は大きなお茶箱のような木箱に目張りしたものを使っていましたね。

――先ほど「千葉の海苔がほしい」というお客さんがいましたね。「やっぱり、磯くさい東京湾の海苔が好きなのよね」とおっしゃっていましたが、やはりこのあたりの方は味の好みがはっきりあるのでしょうか。


ひこゑ このへんの方はとても! この前、隣の蒲田から近くに越してきたという人が、「蒲田ではそんなに海苔海苔言わないんだけど、大森に来たらどこに行っても海苔だ」って。周りの人がみんな海苔海苔騒ぐって言ってましたね。


純子 みなさん、ちっちゃいころから食べてるし、「実は自分のお父さんが昔海苔を作ってたのよ」なんて方がよく買いに来てくださいます。

ひこゑさん。こちらのお店の素敵な包装紙はひこゑさんがデザインしたものだという。


――お二人は大森の生まれですか?


ひこゑ 私も出身は信州で、茅野なんです。嫁いできたころはまだ東京に出てくるっていってもひと苦労で、SLで煤が入るから「窓閉めろ!」みたいな感じでしたよ。


純子 私は大森生まれです。学校に持っていくお弁当にラップにくるんだ海苔が別添えになっていたりして、「やっぱり海苔屋さんのお嬢さんだ」なんて言われたこともありますね。


――こちらのお店の建物は昔ながらの造りですね。


純子 海苔を運び入れやすいように高さをつけていて、ぎっちり積めるように柱が少ないので危険なんです(笑)。海苔仕様の家ですね。


――先ほども若いお母さんが海苔を買いにきていましたが、海苔屋さんで海苔を買うのが日常の街というのが素敵だなと思います。

守矢武夫商店
8時30分~18時30分、日・祝休。
大田区大森東3-8-26 ☎03・3761・7983

街の記憶はあちこちに散らばっている
~『キッチンコロッケ』と大森東さんぽ~

現在の町名でいうと大森東、大森中、大森南あたりは、かつて海苔生産者の家が密集していたエリア。8月号では、もともとは家が海苔生産者だったという総菜屋さん、寿司屋さん、美容師さん、中華屋さんなど、海苔にゆかりがあるたくさんの方々との出会いがありました。『大森 海苔のふるさと館』の五十嵐さんが「このあたりはみんな海苔だった」と教えてくれた大森東、その南端は旧呑川緑地です。昭和57年に埋め立て公園化されましたが、かつては海苔船がずらりと並ぶ川でした。

旧呑川緑地。


この旧呑川緑地のすぐ近くにある弁当・総菜屋『キッチンコロッケ』さんでは、海苔の街らしいお総菜を発見。お店に立つ父・矢部信孝さんと息子・廣信さんにお話を伺いました。


――「磯コロッケ」はやはりこの街にちなんだメニューなのでしょうか。


信孝 そうなんです。海苔の街っていうイメージから妻が一生懸命考えてくれて。最初は普通の海苔を使いたいと思ったんだけど、うちのコロッケはクリーミーなので、海苔の香りを際立たせることができなかったんです。それで、うちのコロッケと相性がよくて磯の香りが際立っている青のりを使うことになりました。


――このあたりの海苔屋さんから仕入れているのですか?


廣信 違うんです。でも、この辺で探してはいるんです(笑)。海苔屋さんでも青のりを取り扱っていないところは多いんですよね。

注文が入ってから揚げる、青のり入りのポテトコロッケ、磯コロッケ110円。青のりがふわりと香る!


――お二人はこのあたりのお生まれですか?


廣信 はい、今は大森東ですが、自分が生まれる前までは大森海岸のほうに住んでいたらしいです。


信孝 息子とは、生まれた病院が同じなんです(笑)。私の両親は美容師で、海苔をやっていたわけではないんですが、大森本町にあった「林屋海苔」(現在は大森北に移転)っていう海苔屋さんの裏に住んでたんです。その「林屋海苔」に海苔を入れておく木の箱があって、よくそこで秘密基地作って遊んでましたね。


――海苔は身近な存在だったんですね。


信孝 そうですね。この店がある辺りは、そこらじゅうに海苔を干していたようなところですし。


廣信 それこそ、この並びの甘味屋の『福田屋』さんは、お店の裏で海苔を干していたって聞いたんですよ。


――この辺りを散歩した方には、磯コロッケで“海苔の街”を感じてほしいです!

信孝さん(左)と廣信さん。メニューは種類豊富!

キッチンコロッケ
11~14時・16~20時、日休。
大田区大森東4-35-8 ☎03・5471・2751

終わりに ~大森に『福田屋』さんがいない夏~

この夏、大森東の街で一つの大きな事件がありました。『キッチンコロッケ』さんでも話題になった大正末創業の甘味屋『福田屋』さんが、90年以上という長い歴史に幕を下ろしたのです。

「うちのお弁当やコロッケは注文が入ってから作るので、できるまでの間、『福田屋』さんでお茶してるという方も多かったんです。高校生が学校帰りに、うちのコロッケと『福田屋』さんのソフトクリームを一緒に食べてたり(笑)」
(『キッチンコロッケ』矢部廣信さん談)


「小さいころから子供だけで行ったりしていたので、ものすごく大きな財産を失ったような感じです。当時、クリームソーダが100円だったので、300円がんばって貯めて、フルコースにするのが楽しみでした」
(『守矢武夫商店』守矢純子さん談)


この街の方々とお話ししていると、必ず『福田屋』さんの閉店が話題になります。クリームあんみつ、アズキモナカ、冬だけの今川焼といった懐かしい味。アイスクリーム70円、かき氷180円という良心的な価格設定。4世代にわたってお店に通ったという常連さん。


閉じられたお店のシャッターに貼られた「閉店のお知らせ」の周りには、さまざまな思い出と、感謝をつづったお手紙がいくつも貼り付けられていました。


実は、8月号の海苔の取材のきっかけの一つとなったのは、1年前に小誌のアイス特集で『福田屋』さんを取材させていただいた際、「昔は海苔漁師と兼業で、冬は庭で海苔を干していた」と伺ったことでした。


貴重なお話をお聞かせくださった『福田屋』の皆さまに、小誌からも、この場を借りて御礼申し上げます。

 

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